1967年、電卓初号機「001」が発売された2年後に入社され、10ヶ月で100万台売れたエポックメイキングな電卓カシオミニ(1972年発売)の開発者でもある羽方将之さんに、カシオの電卓事業60年についてのお話を伺いました。「超電卓」という言葉からカシオミニが生まれたこと、そして商品を作ることが面白くてしょうがなかったことなど、多くの電卓を作ってきた羽方さんの開発者としての思いを伺わせて頂きました。
自分で設計して商品を作れるっていう事が面白くってしょうがない
(羽方さん、会議室の机に並べられた電卓を見て)
羽方:「並べたねー。懐かしいなあ。僕はもう入社(1967年)してから2007年までずっと電卓に関わってますからね。
(1983年発売のカード電卓SL-800を手に取って)ああ、SL-800は後にも先にもこれ以上のものは出てこないね。これは全部フイルムで出来てるんですよ。クレジットカードが厚さ0.8mmだからSL-800も0.8mmにこだわったんですよ。これはもう、ハードウェアの粋を極めて作ったんだよね。
MG-880(羽方さんはパッパーマルと呼んでいました)もあるかな。ああ、これはバイオレーターだ。」
羽方さん、今日はよろしくお願い致します。
1つ1つ見始めたらずっと話が続いてしまうと思うので(笑)こちらからご質問をさせて頂きますね。
羽方さんは現在も開発のお仕事を続けられていますが、最初にものづくりに興味を持たれたきっかけは何だったのでしょうか?
羽方:1966年かな。早稲田大学の電気工学科の4年生の時にコースの選択があったんですよ。その時に計算機コースっていうのがあって、当時はまだ大型の計算機しかない頃で、日本ではまだ計算機を勉強している人が少なかったけれど計算機が好きだったし、これから計算機は面白いだろうなっていうのもあって計算機コースを選んだんですね。
そしてカシオ計算機に入社されるのですね。
羽方:そうですね。1967年に入社しました。なのでカシオの電卓の初号機「001」(1965年発売)はもうすでにありました。
入社した時には、すでに電子式の計算機になっていたので、電子式になる前の樫尾俊雄さん(創業者4兄弟の次男、発明家)が発明したリレー計算機(電磁石の働きでスイッチをオン・オフするリレー素子を使った計算機)はもう生産はしていませんでした。ただ、すでにお客様に販売した分の保守(メンテナンス)をする必要があって、そのための講習会の時にリレー計算機を見てすごいなと思いましたよ。一人でアルゴリズムを考えて、リレーを使って計算機を作り上げている。その頃のアルゴリズムって、2・5進法っていうそろばんのアルゴリズムなんです。
入社して先輩が担当していた「120」というモデルを1年間手伝って、「152」(1968年発売)っていうモデルが最初に開発を担当した機種で入社してすぐに開発をやらせてもらっていたんです。
「120」はそれまで素子として使っていたトランジスタではなく、初めてICを使った電卓で、カタログにも「宇宙時代のICソロバン」って書いてあるね。昔の日本では計算機はソロバンしかなかったからね。
120:1968年
152:1968年
羽方:学生時代は学ぶという事はあっても商品を作ることは無かったので、カシオ計算機に入って自分で設計して商品を作れるっていう事がもう面白くってしょうがない(笑)
そういえば忘れもしない、電源回路の設計をしている時にコンデンサーを反対につけてしまったことがあってバーンと爆発したことがあってね(笑)びっくりしましたよ。コンデンサーって中が紙で巻かれているんですがその紙がバーンと出るんですよ。すごいですよ、やってみます?(笑)
そうしたら先輩に「羽方くん、昔はコンデンサーが爆発して大怪我をすることもあったんだよ」なんて言われて、若い時はそんなこともありました。
羽方:計算機を開発していると計算機で何でもできるんじゃないかっていう錯覚に陥るんですよ。その後、電卓を動かす頭脳に当たるパーツのLSIが開発されていろんなことができるようになるんだけれど、当時もアルゴリズムを考えながら、そんなことを考えていましたね。
自分が設計した回路をLSIにしてもらった初めてのモデルは、AS-Aだったね。この横長のデザインはソロバンに見立てていて、モデル名の「AS」という表記も樫尾俊雄さんがabacus(ソロバン)から名付けたんです。その後も画期的な商品は横型からスタートするという感じでしたね。
AS-A:1969年
0から1を生み出すためには考えるしかないから。考えたとしか言いようがない <カシオミニ>
1972年に発売されたカシオミニのお話をお伺いしたいのですが、羽方さんはカシオミニの回路、アルゴリズムの設計をご担当されましたが、そもそもどういったお話で開発が始まったのでしょうか。
*カシオミニ:1972年発売。持ち運んで使える小型軽量のボディ、そして徹底的なコストダウンによって1万2800円というそれまでの電卓の価格の三分の1という革命的な低価格を実現し、10ヶ月で100万台、シリーズ累計1000万台を販売した大ヒット商品となり、電卓はカシオというイメージを世界的に広めることになった。カシオミニによって、それまで会社しか使われていなかった電卓が、広く家庭に普及するきっかけともなり、カシオミニ以降、電卓が広く普及したことで、電卓のためにLSIが大量に必要となり、電卓と共にLSIが進化していくという事にもなっていった。
CASIO MINI・1972年
羽方:当時の電卓は安くても3万8000円くらいだったところ、1万円の電卓を作ろうっていうことで上司の志村さん(当時の開発本部長)が黒板に「超電卓」って書いたんです。
超電卓ですか!すごい言葉ですね(笑)超電卓・・とにかくすごい電卓を作ろうっていう意気込みが伝わってきますね(笑)
羽方:その時、僕は関数電卓を作り始めていたんですが(カシオ計算機初の関数電卓fx-1:1972年発売)、1万円の「超電卓」の担当もすることになって、さてどうしようかなと。
使用するLSIの数を減らして1つにして(それまでの電卓では複数個のLSIを使う事が標準的だった)、4桁の数字の表示だったら1万円くらいで出せるかなと思ったんだけど、それだと1000の位までしか計算できなくて使い物にならない。せめて100万円くらいまでの計算が出来ないとなということで6桁にしたんですよ。
ただ、6桁にしたのは良いんだけど、掛け算をしたらすぐに6桁を超えてしまうから、ダブルレングスボタンを押すことで、6桁を超えた数字を表示させることができるようにしたんです。
6桁を超える数字はダブルレングスボタン(三角形が印刷されたボタン)を押すと
7桁目以降の数字が表示される
羽方:それと、小数点が無いんです。それまで小数点が無い電卓は無いんですよね。小数点を入れると回路が複雑になるのですが、小数点をなくせば1つのチップにすることができるから無くそうと。ただ、1÷3が出来ないのは電卓じゃないよねと。なので、ダブルレングスボタンを押している間は少数点以下の.33333が表示するという、こういった仕様を一生懸命考えて、簡素化させて回路にしたんです。
6桁を超えた表示はダブルレングスボタンを押すことで表示するという仕様が新しい発想ですごいなと思うのですが、どのようにしてその発想に至ったのでしょうか?
羽方:ん-・・・まあ、考えればわかるじゃないですか(笑)
いやいやいや(笑)
羽方:まあ、とにかく考えましたよ。0から1を生み出すためには考えるしかないから。
考えたとしか言いようがない。
当時8桁の電卓すでにあったから、そんなのはやりたく無いと思うわけ。
要するに他の人がやっている事なんてやりたくないんですよ。
8桁表示で2万9800円になった所で面白くもおかしくもない。やっぱりブレイクスルーっていうのは壁を越えなきゃいけないという事ですね。
志村さんに1万円の「超電卓」を作るぞって言われた時に、1万円だったら誰でも買う事ができるなって思ったよね。
羽方:それともう一つ、バッテリー(電池)で動かないといけないっていうことにはこだわったんですよね。8桁表示にすると消費電力が多くなってしまう、一方で4桁表示だと計算機としては使えないという所で、トレードオフで6桁表示になったという事ですね。
そして1971年の年末に、会社の大掃除を免除してもらって(笑)立川のビジネスホテルに2泊して、手書きで方眼紙に図面を書いたんです。
描いた図面のLSIを作ってくれる会社に出したのが2月だったかな。それからLSIが出来上がってくるまで本当に緊張するんです。1個配線が間違っていたらダメじゃないですか。その頃はシュミレ―ションシステムが無かったから本当に緊張してましたね。
だいたい、書きあがった手書きの図面が整然とキレイだったらうまくいくんですよ。整然と論理的に描かれているからキレイなんですよね。それが後から追加したりぐかぐちゃしていたりすると、うまくいかないんですよね。
そして樫尾幸雄(特別顧問、創業者4兄弟の4男)さんが機構部分を作ってくれてね。板バネ状のスイッチも作るのに苦労したんだよね。幸雄さんのメカとローパワー(低消費電力)を実現した回路が無いと実現しなかったものですよね。
出来上がったカシオミニを見て、どう思われましたか?
羽方:うん、今までに無いものが出来たなと思ったね。やっぱり1番は電池で動くっていう事だよね。それまでの電卓は電源ケーブルが付いていたから持ち運ぶことができなかったんだよね。
それが電池式になったことで持ち運びができるという事にすごく魅力を感じたね。
やっぱり、電池で使えてどこでも使えないと普及しないって思ったんですよね。
電池で何時間も使ってもらえるようにしないといけないから、そのために徹底的にローパワー(低消費電力)にして、数字の0も小さく表示するようにもしたりしてね。
発光部分を減らすために、0が小さく表示される
羽方:開発者としては自分が開発した物を誰かが使ってくれているのを見ることはすごく嬉しいことで、当時、たまたまテレビを見ていたら山の測量か何かをしていて、カシオミニが使われていたんですよね。今までは計算機を外で使う事なんてできなかったのだから、こんなふうに使ってくれるのかというのを見て、これなら売れるなと実感しました。
それと、出張でイタリアに行った時にレストランでカシオミニを出したら、みんな寄ってきて売ってくれ売ってくれって言われてね。
計算機ってそれまではどこかに持ち出して使うなんてことは出来なかったから、やっぱりエポックメイキングで、インパクトがありましたよね。
安くても電池で動かなかったら全然ダメだったと思いますよね。
1972年に発売されたカシオミニは発売後10ヶ月で販売台数100万台を達成し、大ヒットとなりました。(その後、カシオミニシリーズ累計で1000万台を販売)
羽方:それまでの電卓は月に1000台とかの注文数だったところ、10万台を作るって聞いてすごいなあと思いましたよね。
アメリカで爆発的に売れたんですよ。当時の為替で49.95ドルだったので安かったんですよね。
当時、電卓戦争って言われるくらい様々なメーカーが電卓を作っていたけど、カシオミニの価格破壊のおかげで、多くのメーカーが作るのをやめちゃったんですよね。
羽方さんはカシオミニ以降も様々な商品を開発されるわけですが、羽方さんにとってカシオミニはどういう存在なのでしょうか。
羽方:面白いアイディアを盛り込むことができたなっていう物ですよね。人と同じことはやりたくない、他の人と同じ仕様で作ったら1万2800円では出来なかったですよね。それをどうやってブレイクスルーするのか。ブレイクスルーっていう事を本当に感じましたね。
超えなきゃいけない壁は超えなきゃいけないんですよ。
沢山は売れないと思ったの。だけども常に最先端の最高の電卓を作らなければいけない
そして、羽方さんがカシオミニの開発と並行して取り組まれていたカシオ初の関数電卓fx-1も1972年に発売されますね。
fx-1:1972年
fx-10:1974年
羽方:関数電卓初号機のfx-1(1972年発売)は32万5000円だったのですが、これだと値段が高くて学生さんには売れないよとなって、学生に売るためにfx-10(1974年発売:2万4800円)というものを作ったんです。これが工業高校の学生に売れて、カシオの商品を学校に売るというルートが出来たんです。このおかげて関数電卓以降も様々な商品を学校で売るようになるのですが、そのきっかけとなったのがfx-10なんです。
関数計算器が無かった頃の理工系の学生は計算尺(アナログ式の計算用具)を使っていたんですが、fx-10はそれまでの関数電卓が32万5000円もしていたのに、いきなり2万4800円にしちゃったんです。その当時は価格破壊って言われましたね。
そして、R-1っていうプリンター電卓(計算式や計算結果が紙に印字される電卓)も作りましたね。
R-1:1971年
1970年代はどんどん新商品を作っていたイメージがあります。
羽方:寝ないで作ってるからね(笑)
基本的に1年間くらいかけて新製品を作るんだけど、だいたい半年くらいでめどをつける感じですね。
カシオミニ以降も様々な電卓が作られていきますよね。
羽方:まずはやっぱり、他社さんとの小型化の勝負だよね。
最初に他社さんが手帳サイズを作って、手帳サイズでは他社さんが先行したんです。じゃあカシオはどうするのかって考えた時に、じゃあカードサイズだと。
カードサイズをやろうっていう事で、1978年だからLC-78っていう名前を付けたカードサイズの電卓を出してね。当時、手に持ったLC-78にフッと息を吹きかけてくるくる回すCMを作ったりして、そして最終的にSL-800にまでなって行くんですね。
SL-800:1983年
*SL-800 1983年発売。電子部品のフィルム化により、厚さ0.8ミリ・重さ12グラムを実現した世界最薄のクレジットカードサイズの電卓。日本の想像力・技術力を結集した、携帯性における究極の姿ともいえる。
羽方:SL-800は価格的に高いから(当時5900円)沢山は売れないと思ったの。だけども電卓のトップメーカーとしては常に最先端の、最高の電卓を作らなければいけないっていうのが、電卓メーカーとしての考え方っていうのかな。
電卓以外の機能を搭載した複合電卓の初号機、バイオレーターを作ろうとなったきっかけを教えて頂けますでしょうか。
バイオレーター:1975年
羽方:当時、バイオリズム(*生まれてからの日数を元に、その日の体調や運勢を知ることができるという考え方)というものがもてはやされていたんですよね。じゃあバイオリズムを計算するのに計算機と一緒にしたらいいじゃないかということで作ったんです。
でんクロCQ-1:1976年
羽方:そして、カシオ計算機が時計を作り始めたので、そのハードウェアを活用して時計付きの電卓の「でんくろ」っていう電卓が出来て、「でんくろ」っていう名前は宣伝をやってくれていた方が付けてくれて、最初に聞いた時には違和感があったんだけど、面白い名前だよね(笑)
時計事業もやっているというバックグラウンドがあったからこの商品は出来ているんです。
やみくもに他社がやっているから企画するっていうことでは無くて、
技術のベースとして、電卓があって時計があって、という所から新しい商品が生まれるという事ですね。
ゲームだって関数だって、新しい機能を考えるっていう事が仕事なんです
羽方:そして1970年代後半頃にはインベーダーゲームが流行ってたんですよね。これを電卓でやったら面白いんじゃないかと思ってMG-880(1980年発売)を作ったんですよね。
これが本当に良く売れて、当時、修学旅行の高校生が東京駅かどこかで一生懸命これで遊んでいたのを見て、これは売れるなと思ったね。
MG-880:1980年
ゲームセンターにあるインベーダーゲームと電卓の画面って全然違うじゃないですか。いくらインベータ―ゲームが流行っているからとはいえ、それを電卓でやってみようって思う事がすごいなと思います。
ランダムに出てくる数字(敵)に対して、足して10になるような数字を発射することで敵を消していくというアイディアは羽方さんが考えられたのですか?
羽方:そう。流行っているインベーダーゲームを、数字しか表示が出来ない電卓の画面でどうやってやるのかを考えたんですよ。なんで流行ってるのかなっていうのは一生懸命考えたよ。みんな夢中になってたからね。
足して10になったら敵が消えるというアイディアはどういう発想で思いつかれのですか?
羽方:そういうことを考えるのが計算機屋の仕事なんです。ゲームだってそうだし、関数だってそうだし、新しい機能を考えるっていう事が仕事なんです。そういう事に夢中だった時代だったかもしれないね。
当時一緒に仕事をしていた同僚がゲームがすごく上手でね。彼にちょっとやってもらったんだけど、ゲームってやっぱり夢中にさせるコツがあるんですよ。最初は入りやすくしなくちゃいけないんですよ。入りやすいんだけど奥が深くなきゃいけないんですよ。
そこを同僚がもっとこうしないととかアドバイスをくれて、やっぱり飽きちゃうとだめじゃないですか。飽きさせないという事がゲームの神髄だという事がやってて分かったんですよね。
ゲームで人をどう喜ばせるのかについては、羽方さんがそれまでやって来た計算の世界とは全然違いますよね。
羽方:面白いことをやれればいいと思ってたんですよね。
だって、電卓の数字しか表示できない画面でゲームが出来たら面白いじゃないですか。
見た目は普通の電卓なのに、インベーダーゲームができるって面白いなって思って作っていて、僕はMG-880は名機だなって思うし、メモリーに残るものですよね。
当時一般の電卓が3000円くらいで売っていて、同じ材料費でソフトを書き替えてゲーム電卓として売ることで少し高く売ることができて、またそれが売れたもんだから、当時の営業部門の責任者がゲーム電卓をもっとやろうってなって、新入社員を何人か集めてゲーム電卓のグループを作って野球だとかパチンコだとか沢山作ったよ。
その時に、他社さんみたいにゲーム単体で作ったらいいんじゃないかという話もあったんだけれど、まあ計算機の本業を忘れないようにしようっていうことでゲームも遊べる電卓を作っていたんだよね。
計算機をまじめに作るだけじゃなく、時計だったりゲームが出来たりすることによって、電卓に付加価値がうまれていくんですよね。
MERODY-80:1979年
羽方:あとは、メロディー電卓もありましたね。それはカシオが楽器を始めたからなんですよね。1980年にカシオの電子楽器の初号機「201」が出るんですが楽器が無ければメロディ電卓はやらなかったでしょうね。
その頃に他社さんの製品でボタンを押すとピッピッと音が鳴る電卓があったんですよね。ピッピじゃ面白くない、カシオは音階をつけようっていうのもあってメロディ電卓としたんです。計算するためにボタンを押すといろんな音がでるのが面白いじゃないですか。楽しいでしょ(笑)だから仕事も楽しくなるといいよねって。
それと楽器と言えばVL-1(1981年発売)だ。これ楽器なのに電卓がついてるんだよね(笑)
VL-1:1981年
羽方:この頃、僕は楽器と電卓の両方を見てたんですね。これは電卓のチームで作った楽器なんですね。VLという名前は、Very Large ScaleのLSIを使っていたから、VL-1っていう名前を付けたんですよね。名前を付けるのが面白くてね(笑)社長にVL-1にしましょうって言ってね。
SL-800は何でSLだったっけなあ。。嘘八百の800じゃないよ(笑)
歴代の電卓の中でも特に個性的なライター機能つき電卓の開発の経緯をご存じでしたら教えて頂けますか?
QL-10:1978年
羽方:これはね、当時開発本部(主にLSIと機能開発を担当)と技術本部(主に機構や実装を担当)とがあって、技術本部の人が出したアイディアなんです。僕は煙草を吸わないからあんまり興味が無かったんだけど面白い物だよね。技術本部でもどんどん商品を作ろうという事で作られた商品ですね。
1970年代~80年代に作られた様々な電卓を見ると、新しいものを作るんだというチャレンジ精神を感じます。
羽方:まあ、僕も若かったからね(笑)アイディアがあれば計算で何でもできちゃうって思ってたからね。
1980年前後のカシオ計算機は、新しいものを毎日生み出そう、毎日が新製品という事だったんですよ。
その前の時代は他社との競争で、やっぱり価格競争っていうのが大きかったんだけどそれをカシオミニで決着をつけたんだよね。そういった意味でカシオミニの存在は大きかったよね。
そして関数電卓やプリンター電卓のような付加価値が高い物も大事だったと思うよね。
商品は誰かに作りなさいって言われたわけじゃなくて、自分で考えるしかないんです。全部そうなんです。
カシオミニは安く作れーって言われたから、なんとか安くする方法ために考えて、それ以外はなにを作ったっていいんだから(笑)
開発は人がやってるんですよ。組織で生まれるんじゃないんです。
1人のアイディアから生まれるもので、カシオが電子楽器を作り始めたのも樫尾俊雄さんが作ろうと思って形にしていったんです。
関数電卓の初号機だったりゲーム電卓の初号機だったり、最初に作ったものっていうのは自分でも0から1を作るっていう事が出来たなっていう思いはありますよね。まあ、若かったからね(笑)
一生懸命に稼ぐために作った商品もあるし、おもしろいから作った商品もあるし、絶対に他社に負けないぞっていう思いで作ったSL-800なんかはまさにそうだし。
毎年、日本経済新聞で新製品に賞を贈るというのがあってSL-800は日経大賞っていう賞をもらったんですよ。あの頃は賞をもらうのが楽しみだったんですよ。
毎日が新製品。それがカシオらしさ
ハードウェアとしての電卓はこれからも残ると思いますか?
羽方:ハードウェアとして計算機はこれからも残ると思うんです。スマートフォンでも計算は出来ますが、少なくとも仕事で計算をされている方が使うための電卓は残りますよ。
計算のニーズは無くならないですよ。どんな時代でもテンキーで入力して答えを出すという計算をしたい人は必ずいると思うんですよね。
ただ課題はね、AIの時代に電卓はなにをするの?っていう事をこれからの電卓を作る皆さんが考えてくださいよ。カシオがAI電卓を出したって言ったらみんなびっくりするんですよね。なんだろうって思うじゃない。つまらない物を出したって駄目よ。(笑)
面白いねえって言われる商品が出たら嬉しいよね。
なるほど(笑)ではまだまだ新しい電卓が生まれる可能性があると思われているという事ですね。
羽方:OBとしては新しい電卓を生んでくださいと言いに来たんです(笑)
カシオ計算機はやっぱり、計算機なんです。時計も中身は計算機なんです。「カシオ計算機」という社名について、計算機以外の時計、楽器、カメラ、携帯電話などの事業を展開する中で、社名から「計算機」を外して「カシオ」に変更する事を検討したことがありましたが、全ての製品の原点は計算機で、計算機で出来ているという理由で「カシオ計算機」という社名を変えないと決めました。カシオ計算機の商品は計算機の技術があっていろんなものを作っているからカシオ計算機なんです。
最後の質問なんですが、羽方さんにとってカシオらしさってどういうものだと考えますか?
羽方:(間髪入れずに)毎日が新製品。
それがカシオらしさだと思ってる。
新しいものを作ってくれる会社だなと思われてきた会社だし、これからもそうあって欲しいなって思ってます。
デジタルカメラのQV-10やG-SHOCKのようなエポックメイキングな商品をみんなで作ってもらいたいと思っています。
*QV-10 1994年発売。世界初の液晶モニター付き民生用デジタルカメラ。光学ファインダーをなくし、液晶モニターが搭載されたカメラは、撮影した画像をすぐに液晶モニターで確認することができ、写真をプリントするフィルムカメラの代替ではない、デジタルカメラのあり方を提案した商品でした。
電卓60周年プロジェクトのメンバーと羽方さん
2時間ほどお話を伺わせて頂き、後日、羽方さんから電卓60周年プロジェクトのメンバー宛にメールを頂きました。
エポック電卓を一堂に集めてご担当の皆さんとお話が出来、本当に楽しいひとときでした。
計算機の会社として新たなアイデアと技術を盛り込んだ商品を世に送り続けていかれることを心より願っております。
当方は続けられる限り創造貢献の理念を持って仕事にいそしんでいくつもりです。
羽方将之