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「明子さんのピアノ」デジタル音源化プロジェクト | CASIO

「明子さんのピアノ」デジタル音源化プロジェクト

「明子さんのピアノ」デジタル音源化プロジェクト


— 音が語る記憶、響きがつなぐ未来

広島市平和記念公園内の「広島市平和記念公園レストハウス」に常設展示されている1台のアップライトピアノ——「明子さんのピアノ」は、1926年に製造され、当時広島に住んでいた河本明子さんが所有していました。1945年8月6日の原爆投下により被爆し損傷を受けながらも2005年に修復され、現在まで受け継がれてきた楽器です。
世界的ピアニストのマルタ・アルゲリッチ氏をはじめ、多くの音楽家によって弾き継がれてきたこのピアノは、平和へのメッセージを宿した音として歴史を重ねてきました。
そして、2025年10月15日、マルタ・アルゲリッチ氏、酒井茜氏、角野隼斗氏が出演した「被爆80周年 Music for Peace 『明子さんのピアノ』支援コンサート」を契機に、このピアノの音を未来へ残す新たな試みが始まりました。それが、「明子さんのピアノ」デジタル音源化プロジェクトです。
本稿では、関わった人々の言葉を通して、「明子さんのピアノ」とデジタル音源化プロジェクトの歩みを紐解いていきます。

— 音が語りかけたもの

多くの音楽家によって弾き継がれてきた「明子さんのピアノ」。
その音は、長い時間の中で静かに意味を深めてきました。

プロジェクト発案者の一人であるKAJIMOTOの佐藤正治氏にとっても、このピアノの存在をあらためて強く意識する出来事がありました。

佐藤氏
「以前、広島での演奏会が終わった後、アルゲリッチ氏が『私も弾いてみたい』と言って、その場に残り、明子さんのピアノで初めて音を出したんです。それが最初でした。そのときアルゲリッチ氏は、『不思議なことですが、このピアノはショパンが好きなようですね。明子さんもショパンが好きでよく弾いていたのでしょう。ピアノがそれを覚えていたのかもしれません。明子さんのピアノは特別なピアノよ』と語ったんです」

世界中で数多くの楽器に触れてきた音楽家が、楽器の内側に宿る“記憶”へ思いを巡らせた——その言葉は、佐藤氏の心に強く残りました。それは同時に、音の奥に積み重なってきた時間の存在をあらためて実感する出来事でもあったといいます。

このピアノは単なる歴史的遺品ではない。記憶を宿し、静かに人へ語りかけてくる存在なのだ——そう感じた瞬間でした。

— “残していきたい” から、デジタル化へ 

広島で明子さんのピアノの保存と継承に携わってきた一般社団法人HOPEプロジェクトの二口とみゑ氏はこう語ります。
二口氏
「音楽で広島をいっぱいにしようという活動に関わるようになったとき、ふと、明子さんのピアノのことを思い出したんです。“あのピアノも残していけたらいいね”って」
その思いを受け止め、実際に修復作業に向き合ってきたのが、調律師の酒井原浩氏でした。

酒井原氏
「このピアノとの出会いは、もう約22、3年前になりますけれども、最初に見たときは、正直、弾ける状態ではなかったんです。これは、捨ててはいけないピアノ、保管し伝えていくべき楽器だと感じました」

“守るべきもの”だという直感。そうした想いと行為の積み重ねが、このピアノの時間を静かにつないできました。
しかし、どれほど丁寧に手をかけ続けても、物理的な楽器である以上、同じ状態を永遠に保ち続けることはできません。やがて、ひとつの問いが浮かび上がります。この音を、どうすれば未来へ受け継いでいけるのか。

二口氏
「この明子さんのピアノが、もうすぐ100歳になるんです。永久に残すことは難しい。だから、せめて音だけでも後世へ伝えられないだろうかと、ずっと思っていました」

酒井原氏
「私も同じです。いつか限界は来ます。だからこそ、音だけは何とか残してほしいという気持ちは強くありましたので、デジタルとして録音していただくという意義はすごくあるなと思いました」

楽器を守り続けてきた人々の願いは、やがて「音そのものを残す」という発想へと向かいます。その可能性に、応えようとしたのが電子楽器メーカーのCASIOでした。

プロジェクトの責任者でもある、カシオ計算機株式会社の小野哲郎氏は、当時をこう振り返ります。

小野氏
「このピアノの音と、その背景にある歴史や想いを未来へつなぐために、デジタルが果たせる役割とは何か。その問いを託されたように感じました。電子楽器メーカーとして、音楽文化を次の世代へ受け継ぐことは私たちの責任でもあります。この特別な音を未来へつなぐことは、非常に意義のある取り組みだと考えました」
“残したい”という願いが、はじめて具体的な方法を伴い始めた瞬間でした。

— 100年もののピアノを、どう録るか

“残したい”という願いが具体的なかたちを帯び始めたとき、次に立ち現れたのは、極めて現実的な問いでした。

—どう録るのか

100年という時間を生きてきた1台の楽器は、現代の基準だけでは測りきれない
揺らぎと表情を宿しています。その音と真正面から向き合ったのが、サウンドエンジニアの迎谷 彰信氏でした。

迎谷氏
「世界に1台しかない、しかも100年もののピアノです。録音を始めてすぐに、これは今のピアノとはまったく違う楽器だとわかりました。そこがまず大きな驚きでした」

“違う”という実感。
そこから、方法そのものを探る試行錯誤が始まります。

迎谷氏
「どうやって記録するのがいいのか。気の遠くなるような工程でした」

広島で収録された音はおよそ3000。そこからさらに選び抜き、響きや質感を整えながら、最終的に約1700の音へと再構築されていきます。

迎谷氏
「単に並べるだけでは足りません。音と音の“間”が自然につながらないと、楽器として成立しないんです。強さを変えながら弾いたときに違和感が出ないように、そのつながりには特に神経を使いました」

数値だけでは到達できない領域へ、技術によって近づいていく。
それは単なる再現作業ではなく、このピアノの“呼吸”を聴き取ろうとする営みでもありました。

こうした姿勢を、CASIOの小野氏は、次のように語ります。

小野氏
「歴史を刻んできた楽器の音を受け継ぐということは、単なる技術的な行為ではありません。そこに込められてきた時間や、人々の願いまで含めて丁寧に向き合う必要があると考えました。ですから私たちは、音を“きれいに整える”ことよりも、“明子さんのピアノ”が長い年月を経て育んできた唯一無二の個性を損なわずに受け継ぐことでした」

正確であることよりも、そのピアノらしくあること。

それこそが、この録音における最も重要な指針でした。

— ピアニストたちが感じた「特別なピアノ」

積み重ねられてきた準備が、ひとつの瞬間へと収束します。ステージで音が鳴ったとき、それはどのように響いたのでしょうか。

ピアニスト・角野隼斗氏は、本番をこう振り返ります。

角野氏
「音の特徴がしっかり捉えられていると感じましたし、弾いてみて、本体よりも、より一層その個性が立ち上がってくる瞬間すらあったんです。それが、とても面白いと思いました」

その変化を間近で体感していたのが、録音や調整のプロセスにも立ち会ってきたピアニスト・酒井茜氏でした。

酒井氏
「自分が想像していた音よりも、もっといろんな音色が出るピアノだな、ちょっと特別なピアノだなというのが第一印象でした。皆さんとお話ししながら、“この音域はもう少しこうしたい”ということをその場で伝えていくと、本当に数秒のうちに変化していくんです。どんどん良くなっていく、その成長を目の前で感じられるのがとても新鮮でした」

そして角野氏は、その体験を通して、この取り組みが持つ意味へと思いを巡らせます。

角野氏
「明子さんのピアノは、深いというか、本当にいろんな物語を持った楽器だと思います。いつかは弾けなくなるかもしれない。だからこそ、それをデジタル化して永続的に残していくということには、それ自体に大きなメッセージがあると感じました。未来永劫、引き継いでいくんだという——そういう意思の表れでもあるのかな」

— 音が語る記憶、響きがつなぐ未来

角野氏の言葉が示していたのは、デジタル化によって音が保存されるという事実だけではありませんでした。それは、誰かの手に触れられ、もう一度鳴らされることで初めて生き続けていく——そんな「継承」のかたちでもあります。
このプロジェクトを間近で見守ってきたKAJIMOTOの佐藤氏は、その本質を次のように語ります。
「明子さんのピアノは”物ではなく、心である“それに尽きると思います。アルゲリッチは、このピアノを単なる楽器ではなく、“何かをたたえている音”だと感じていました。その言葉を聞いたとき、これは単なるデジタル音源化ではなく、未来への継承そのものになるのではないかと自然に思えたんです。そして同時に、この音は記録された瞬間に完結するものではない。誰かが弾いたときに、初めて意味が立ち上がる。人の手を通して受け継がれていくことこそが、一番大事なんだと思います」
では、その“受け継ぐ”という役割を、企業はどのように担うことができるのか。CASIOの小野氏は、こう続けます。
「今回、ステージ上で明子さんのピアノの音を再生した電子ピアノ“CELVIANO”は、グランドピアノの伝統的な響きとデジタル技術がもたらす新しい可能性を調和させることを目指してきた楽器です。その歩みが今回の取り組みと自然に重なり、この音を未来へつなぐ橋渡しの役割を果たしてくれたのではないかと感じています。“明子さんのピアノ”には、長い時間を経て受け継がれてきた音の記憶があります。それをデジタルという形で未来へ手渡していくことで、音楽が持つ力——人と人を結び、時代を越えて想いを伝える力が、さらに広がっていくことを願っています」
そして、長い年月にわたりこのピアノを守り続けてきた二口氏は、静かな言葉でこう語ります。
「これは夢以上の現実です。このピアノに触れられなかった人にもこの音を届けられるって、本当にすごいことだと思います。世界中の子どもたちや、音楽が好きな人たちに明子さんのピアノの音色とともにその平和への願う心も届けられたら嬉しいですね」
音は記録されたことで終わるのではなく、誰かに触れられ、鳴らされるたびに新しい時間を生きていく—
「明子さんのピアノ」の響きは、これからも人の手を通して、静かに未来へと受け継がれていきます。

■取材協力
一般社団法人HOPEプロジェクト
https://www.akikos-piano.com
公益社団法人 広島交響楽協会

Movie

▼マルタ・アルゲリッチ×角野隼斗
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